2019年1月1日火曜日

第三講「洗礼者ヨハネの誕生の告知」塚本虎二

謹賀新年。元旦。
今日は読んだのみ。執筆は明日以降にする。



二日。著作集第一巻の主要なものは福音書研究であり、なかでもルカとマタイの福音書をメインに26講まであり、その後いくつかヨハネ福音書の講義があるという構成になっているようだ。

今日は「洗礼者ヨハネの誕生の告知」である。ヨハネはまず、ザカリヤとエリザベツ(エリザベトともいう)の子である。ヨハネは親が祭司に関しているため、祭司系統の子ということになる。

ヨハネの親夫婦は子宝に恵まれないでいたのだが、主に祈りが聞き入れられたことをガブリエルによって告げられる。そのことが、ルカ福音書1章5-25節に書いてある。日本聖書協会の新共同訳(2010)「旧約聖書続編つき」でその部分には題がつけられていて、「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」とある。

ほかの福音書では、どうだろうか。
マルコは、「洗礼者ヨハネの先触的宣教(さきぶれてきせんきょう)をもって始まり」(塚本28頁)……略……「ほかの三福音書は、いずれも洗礼者の出現の前に、福音前史とでも称すべきものが付せられてある。マタイにおいてはイエスの系図とその誕生……略……、ヨハネにおいてはイエスの前身たるロゴスに関する序説、しかして今我らが研究せんとするルカにおいては、イエスお呼び洗礼者ヨハネの誕生及び幼年時代に関する記事」(同)。

ゆえ、
洗礼者出現の前に福音前史ありということになる。
マルコは、洗礼者ヨハネの先触れ的宣教。
マタイは、イエスの系図とその誕生。
ヨハネは、イエスの前身たるロゴス。
ルカは、イエス及び洗礼者ヨハネの誕生及び幼年時代。
よって、ヨハネ出現に深く関しているのは、マルコとルカであろう。

ルカ1章5節以下52節までの福音前史は明確に7つに区分でき、濃厚なほどユダヤ的色彩だそうである。引用すると以下に整理されている。
洗礼者ヨハネ誕生の告知(5-25)
イエスの誕生の告知(26-38)
イエスの母のヨハネの母訪問(39-56)
ヨハネの誕生(57-80)
イエスの誕生(二1-20)
イエスの割礼と初詣で(21-39)
十二歳のイエス(40-52)
ルカはヨハネの誕生に関して貴重なる福音書の幾頁かを割いたことがキリスト教におけるヨハネの重大な地位を示していると塚本さんは考える。「イエスはヨハネの先駆けを必要とする。イエスの恩恵の福音は、峻厳なるヨハネの旧約道徳の先駆けを必要とする。」

して、少し字句の解説があるが、読めば良いだけのものと思われるので割愛する。それから、「新約の曙は、天来の『恐れることはない!』なる歓(よろこ)ばしきラッパのひびきをもって来った。」(塚本30頁)新約聖書の最初において天より来た最初の言葉がそれだ、ということだ。

ナザレ人(びと)とイエスの故郷ナザレとは関係がない。ナザレ人とは聖別せられし者の意味であり、一定の特別な規律のもと生きる人のことを言う。全生涯あるいは一定時期の間は酒類を飲まないなど。洗礼者ヨハネもそうであり(ルカ七33)使徒パウロも一時この誓願をしたようである(行伝一八18、二一23,24)。以下の文言がそれだ。恐らく法学と同じで、ここで聖書の該当箇所を確認すべきである。

「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると」
「パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った」
「わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。」等

しかし残念ながら私の新共同訳では「マラキ書四章」というのが新共同訳には見当たらない。どうしたものかと思っていると「エリヤの霊と力」は、マラキ書の3章の最後のほうにも書いてある。ネット検索してみると、『8. マラキ書の終末預言ー「見よ。その日が来る。」』(牧師の書斎)が見つかる。そして以下。
「ヘブル語聖書では4章はなく、3章からつながっています。新改訳がなぜ4章としているのか分かりません。」
マラキ書の3章23節にこうある。「預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」そして、「ヨハネはエリヤであった」と塚本さんが書く根拠は「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。」(マタイ11章14節)である。また両人がその天職や風采においても酷似している出典もいくつか挙げられている。

それから「正しき親子関係」「国民道徳」「家庭の浄化」などが書かれている。その後、「その証拠は何でしょうか」とザカリヤが言ったことは神を信じていないからだということでザカリヤはしばらく話すことができなくなる罰を受ける。

塚本さん曰く、罰というよりは、子どもが産まれるという奇蹟が本当であるということを信じさせるために一つ人間にはできないことを主がザカリヤに示した、すなわち、主からザカリヤへの愛情だ、という流れになっている。ザカリヤの盲目になったことは、「ヨナの魚腹」が挙げられている。この物語をまだ私は読んでいないがネットでさらっと確認したところ、悔改めと偏見の排除が重要である。

「信仰とは、人生の経験ではない、学識ではない、道徳ではない、信仰である。」

そしてザカリヤのその、疑ったことが不誠実や不信仰とみなされた件について、古事記の雄略天皇や引田部の赤猪子の話を読めとあるので、いずれ読んでおこう。ただし、この「証拠」という文言は、塚本さんの本の中に引用されてある訳にしかなく、私の持っている新共同訳にはそう書いてない。いずれにせよ、人々は神の力を信じないので至るところで証拠を求める。

「……略……神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人は救ったのに、自分は救えない。……略……。」(マタイ二七40以下)

それから私が思うに、塚本さんの考察が分かりにくい問題の個所がやってくる。
「何故人は病むか、何故死ぬるか、永遠に生くべく創造(つく)られし人間が。何故人間に災厄が臨むか。何故の関東大震災、何故の世界大戦争であったか。……略……。これは一体何の故であるか。もちろん偶然ではない。否、それはみな神より出でしことでなければならぬ。それは人類の不信に対する神よりの罰でなければならぬ。然り、彼らの不遜なる要求に対する神よりの応答である。愛なる神は、彼らの求むる神たる証拠を与え給いつつあるのである。常に証拠を、証拠をと言いて神に迫る人々よ、眼をみはりて自己の内外とを見よ。……略……。諸君はそこにあり余る程の、諸君の求めつつありし、神の存在と、大能と、愛とに関する証拠を見出すであろう。しかし、ザカリヤはやはり信仰の人であった。彼はその不幸の中に直ちに神の力と愛とを見出した(64以下)。」
宗教家や宗教に関することを学問する者にとってというだけでなく、すべての人にとって試練とも言い得るような大きな話であり、今すぐにこのことに関して私が結論を出すのは難しいかもしれない。ひとまず考えられるのは、人間、どのような不幸のなかにあっても、それは神のなせることであり、神のなしたことであるから、受け入れて(拒否できない性質のものでもあるが)、神の愛を信仰し続けて居れば、必ずやそのなかで、または、それを越えて、幸せになるであろう、というような話だと思われる。

したがって、神の行うことは人間にとって一般的に良いことばかりではないということになるかもしれないが、それでも神を信仰して一所懸命に生きれば(ご都合主義ではないところの)良いことがあるであろうということだろう。人間、完全に純粋な者というのは、例えば物心ついた瞬間から、そうは居ないであろう。いつの間にか汚れっぱなしだということに気づく。例えば、すべての世界中の人々に良い行いをしてあげることもできないし社会にとって最高の善行を行い続けることの何と困難なことかを思い知る日々だと言っても過言ではない。

だからと言って災い一般が全ての自己責任だなどというような、社会と個の関係にとってのねじれた理屈でこの聖書に関しての理解まで片付けてしまうのではなく、あたかも「天災」とか「自然災害」などと言うように災い一般が自分の身に降りかかってきたとき、どう考えれば、または、どう受け止めれば、これからの自分にとって良い生き方があり得るのか、ということなのだろう。それはきっと、果てしなく難しい話であるに違いない。

実に私の被災が神からの愛だと誰かに言われたとしたら、これはどう受け止めるべきか、非常に難しいものがある。恐らく他人から何を言われても受け入れることは不可能に近い。自分で信じる又は考えだした結論でなければならぬ。ただし国民主権の観念から私だけが背負う因果関係はないものの全体的に言えば私の被災は神からの愛だと言っても不思議ではない因果関係は認められる。むろんそういうのを(より良い未来への)「犠牲」というのだとは思うので、また別方向の深い考察対象になるだろう。いま問題は天然自然の運動が災害になるほうだ。大地震の被災も私はした。

七転び八起きという言葉があるように、ごくシンプルに、「大変なことがあって、今も苦労や悲しみは非常に深く続いているけれども、こういう良いこともある」と考えていくことは、何も悪いことではないだろう。さらにその試練と成果の両方または片方を神様からの贈り物と思うのは、自由なのだろう。思っても良いし思わなくても良い。そういう性質のものだろうと思われる。なぜなら人によっては、災害を愛だというようには受け入れることが極めて困難なケースもあるに違いない。

そうして、なぜならば、お告げがあったザカリヤとは違い、どれが神の行いで、どれが神の行いでないか、全てのケースについて人間が判断するのは困難だと思われるからだ。その意味で私は塚本さんとこの点で、少し違う結論をとる。なぜなら塚本さんはザカリヤの個別的な環境条件を一般論へ拡大解釈しているようにも一見して見えるが、私はザカリヤの特殊な事情を一般論へそのまま適用することは困難だと考えるからだ。

よって私はザカリヤの特殊性について修正して考えるからこそ、自由意思的であり、不可知論であり、後ろも向けば前も向く論者ということになる。すなわち私の考えは、相対的自由論である。ただこの、ヨハネの誕生の辺りで、ザカリヤが霊的に満たされる場面の光景は自分に置き換えて想像するに素晴らしいことだと思う気がする。讃美歌を歌いだすかどうかはさておき、人間、できることなら、いつでも気力に満ち溢れて居たいものだと私は考える。そう考えていくと、災いをどう捉えるかよりも、(信仰するかしないかの意味でも良いし良い行いをするかしないかでも良いが、とにかく)どう生きるかのほうが核心的であるように思われる。

※時間がない日々のもとでの考察のため至らないところあるかもしれない。また考え続けたい。