2018年12月31日月曜日

第二講「キリスト教の史実性」塚本虎二

第二回の講義は、キリストが実際に存在したかどうかが、キリスト教の根幹に関わるという話である。なるべく手短に書きたい。

まずルカ福音書一章1-4節が引用される。全部が一文より成り優麗なる模範的ギリシャ文で書かれているそうであり、そのことは、当時のギリシャ・ローマの歴史家たちの傾向だそうである。ヘロドトス、トゥキディデス、リビーなど。ルカもまた歴史家たる抱負を持ったのだろうと塚本さんは考える。

この数行の序章は、ルカの文学的才能や教養の程度をも知ることができるから、ルカ福音書の価値を定めるにおいて非常に重要だ。キリスト教は漁夫たちのみに信じられて伝えられたのではなく、聖書記者のなかにルカという医者がいて、パウロがいて、ヘブル書の記者がある。それらの事実は聖書記事に対する尊敬と信憑とを与えるという。そして、直弟子の時代は過ぎて、今や二代目となった時代、それがルカの時代だそうであり、ルカは直弟子ではなかったそうだ。

ルカは使徒パウロの友人だった。コロサイ書にパウロが「愛する医者ルカ」と書いているそうだ。虎二さんはここで医者なら実際的で観念的ではないだろうというような書き方をしているが、当時の医者にそんなことは全くないと私には思われた。ただし、医者一般の広い意味での傾向として実際的な人が多いだろうという一般的な推測を否定するものではない。あくまで「そうとは言い切れない」と思うだけだ。

ルカはその福音書を、今まであったバラバラの資料を「順序を正しく」した面もあるようだ。バラバラの資料をという点は、旧約聖書でも同じような話があったような気がする。Q資料云々の件だ。細かいことはさておこう。そして塚本さんは次のページでしっかりとルカが歴史的に正確かどうかを吟味し始める。つまり、先の段落ではゆっくりとそういう一般論の話をしたわけであり、ご本人も別段そこまで医者=実際的という固い考えを持っていたわけではなかろう。

イエスの史実性、その最も顕著な部分が、二章1-7節だそうだ。ここが歴史的に正確ならば、イエス誕生の年がわかるとのこと。それで論争が激しく行われたそうだ。ごく簡単にまとめておくと、クレニオ総督が戸籍調査をした事実は史料で確実のようだ。しかし、クレニオがシリヤに総督であったのは、紀元後6年とのこと。「後」は、いわば、西暦6年である。ゆえ、今日の研究である紀元前5-7頃つまり、マイナス5~7年とは、計算が合わないことになるのである。紀元ゼロ年を起点として、前なのか、後ろなのか。

ほかに、戸籍調査を自分の町で行ったのか、どうかなど。エジプトのパピルスでは、紀元後6年に戸籍調査が行われたことは明確となったが、それより14年前の期限前8年に行われたかどうかであるが、そのパピルスは発見されていないそうだ。その後、「自分の町で戸籍調査を受ける」に関する物的証拠は見つかったとのこと。だからローマ政府はローマ主義ではなくユダヤ主義でそれを行政したということらしい。以上のように、曖昧不明確な点がちらほらと見受けられ、ルカの歴史家としての威信があいまいになったようである。
他方、現在においては、福音書は宣教を目的として書かれた文章であって、ナザレのイエスの伝記を記すことを目的としたものでないことがはっきりと認められ、また現代歴史学の方法論をもって古代の史家ルカを判断するのは誤りであることが認識されるに至った。(22頁)

重要な文だ。やはり福音書は目的が宣教なのだから、伝記ではないですよ、すなわち、歴史的なことを現代歴史学のように書くことを目的としたものではないですよ、ということなのである。しかもその後の塚本さんの文によれば、以下である。
これは決して非歴史的態度などと言うべきではない。福音の歴史は解釈されなければならないのである。ヨハネの言う如く、光が暗闇の中に輝いていても、暗闇はこれを理解せず、世はこれを認めないからである。(23頁)
なるほど。まだまだ当時に対する思い違いや誤解を現代人はしているかもしれないから、よくよく考えていこうということであろう。自分の理性を疑って、考え直してみることは、学的姿勢としても、とても大事なことだと思う。しかも、ただの歴史ではなく、福音の歴史とある。

塚本さんがルカ福音書やイエス伝の史実性をやかましく言うには、それが「信仰の根本」に関するからだそうだ。ある意味では、もしも、キリスト教の史実性が否定されれば、キリスト教そのものの否定に繋がるのだそうである。これはほかの歴史人物とはその存在理由が異なるからである。

歴史人物たちは、その存在がなくなっても、他の誰かがその言動なりをしたことは確実だからこその史料でもある。しかし、イエスの場合は、その存在がなくなってしまうと、キリスト教そのものに関して揺らぐということだ。
キリストが十字架上で死なず、また彼の復活が架空の夢物語であるならば、我らの救いはなく、罪は遺り、キリスト教は蜃気楼と化する。(同引用)
人は山上の説教があるではないかなどと言うかもしれないが、塚本さんはそう考えない。それらは愛の宗教であって、高き道徳教であって、キリスト教ではないというのである。どういうことを意味するだろうか。次の文で判明する。
キリスト教が真にキリスト教であって、我らの罪を洗い清め、我らに神の子となるの権を与え、我らをして永遠の命に入らしむるためには、(24頁)
目的は、罪を洗い清め、神の子となって永遠の命を得ること。
イエスがヨルダン川にて洗礼者ヨハネより洗礼をうけ、ラザロの墓に泣き、ヘルモン山上にて変貌し、ユダに売られ、ゲツセマネの園に血の汗を流して祈り、十字架上に「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫びて死に、アリマタヤのヨセフの墓に葬られ、三日目に蘇り、弟子たちに現れしことを必要とする。(同頁)
これらの歴史があることが基礎として必要である。これらがあればこそ、イエスの道徳訓や愛の戒めに塚本さんたちは耳を傾けるのであるという。すなわち、一連の歴史を経験してきたイエスだからこそ、その道徳や愛の話が意味のあるものになり、響いてくるということだ。ごく簡単にまとめれば、洗礼を受けた人が苦労して死んで蘇った、その人の言うことだから、道徳とか愛の話に効果が出た、出る、ということなのだろう。

もしも要点を図式化すれば、「死と復活」→「言葉に意味あい」となるのだから、時系列的には、逆になることを、ふと私は思った。それでは当時の人達は、どうして最初から言葉に共鳴を得たのだろう。おそらくは、イエスの起こす奇蹟か何かを、しいたげられた人々は実際に見ていたからとか感受性がそう信仰を持たせたなど、何かそういうことなのかもしれない。感性豊かな人は理屈が通らなくても一定のことを信じるときがある。むろんそれはケースバイケースで一長一短なのは、環境のせいであって本人のせいではない。

塚本さんはこうも述べる。もしも、史実性が無いならば、「世に我らほど惨なる者、また愚かなる者はないであろう。」と。そしてパウロが引用される。
キリストが復活しておられないならば、あなた達の信仰は無意味であり、あなた達はまだ自分の罪の中にいる。……わたし達ほど同乗すべき人間はない(句点なし)
そしてこう言う。
故にもしイエスが歴史人物でなくして架空の人物であるか、あるいはある学者の言う如く、天体神話の人物であるならば、わたしは即座にキリスト教を棄てる。わたしがキリスト教を信ずるは、それがわたしの罪を取り除き得る唯一の宗教であると信ずるからである。(24頁)
おどろくような表現の仕方である。それほど固い信念をお持ちなのである。いや、信仰というのだろう。とにかくそうして、塚本さんにとって、イエス伝の史実性は、キリスト教そして塚本さん自身の「死活問題」(引用)となる。

もちろんかくいえばとて、歴史家の最期の結論とかそういうことを言っているのではないというように但し書きをしてある。多々ある学説のことではなく、だれが見ても99%で間違いなく納得するほどの事実性にまで非常に高められた場合のことを言っているのだろうと思われる。いや、1%の疑いがあったら、塚本さんはその1%を信じるだろう。それほど懐疑的で、それほど信仰的なのである。この学的姿勢は良いことだと私は思う。

「信仰は神より来る」のだそうだ。そして「指」をクギの跡に差し入れの文の辺り、ギリシャ旅行で観た絵を思い出した。カラバッジオ。塚本虎二さんの意図した意味あいは、この絵に重ねて言われたことだろうか。

ただし最後の三行については意味が不明確だった。塚本さんは徹底的に疑って良いと前回の講義辺りで言っているから、私は考えることにしている。しかしこのあたりのことを、新約聖書を読んだときには、そう感じず、そのまま「ああ、こういうことか」と素直に腑に落ちた記憶がある。

福音書というものは、不思議なものなのかもしれない。


2018年12月30日日曜日

考察『交わりを新たにするメシア』(稲山牧師)

本日は『交わりを新たにするメシア』(稲山牧師)が出た。

イエスが生まれるクリスマスのとき、ヘロデが酷いことをしていたことが、終末的と考えられている。そしてファラオの悪政からモーセの流れを当時の(旧約)聖書で知っていたかもしれない人々、または、終末的なことを思っていた人々は、奇跡の証明のように救い主を望んだに違いない。異邦人も重要な役割。

ふとテレビが言う。広島長崎の件でオバマ元大統領が、これらの地域を核戦争の終わりの地ではなく道徳的目覚めの地と言ったと。いわばクリスマスと同じことが眼前に起きたのを今わたしは確認した。確かに、今の政治を思う。我々は言おう。福島は理性傲慢の結果でなく、慎みと優しさの地であると。

それで造語した。
メリーフクシマス。

第一講「イエス伝研究の目的」塚本虎二

塚本虎二著作集第一巻

旧約聖書と新約聖書があるが、新約聖書が旧約聖書を理解するカギになるから新約から読むのが良いと塚本さんは考えている。それから、新約のなかでも難しいロマ書などを研究したい人も多いが簡単そうに見える福音書のたったの一句でもどこでも、本当に理解することが聖書の全精神に到達することだと彼は言っている。

世の中にはいろいろの英雄伝や道徳書があるけれども、聖書はそれらと違うものだそうだ。ただし聖書を読む前に、フルギアの一奴隷であったストア派哲学者エピクテトスの道徳訓(三十頁ほど)がお薦めされている。世界最大の道徳訓とまで称賛されている。しかしそれら道徳訓が幾千かたまっても福音書には及ばないとも言われる。
福音は……略……永遠朽つることなき生命を我らに与える。修養の道に依らず、信仰の道に依りて死なざる生命(いのち)を我らに与うることを目的とする。(13頁)
目的が明らかになった。
「信仰の道によって永遠の命を得ること」
ゲツセマネにおける彼、殊に十字架上の彼。これをソクラテスの死に比して、一見天地の差がある。(故にイエスに英雄を期待する人は、多くこれに躓(つまづ)く。)しかし、これこそイエスが英雄に非ずして、実に神の子である証拠である。(15頁)
ソクラテスの死については、これからもう一度学び直そうと思っているが今のところ思い返すと、生きる長さよりもどう生きるか、ということで法秩序を尊んで死刑に堂々と臨んだと覚えている。すなわち、善く生きることを目的としていたソクラテスはそれが達成されているから、 死刑を恐れず、むしろそこでも法秩序に従うことの善良さを発揮した、のかもしれない。それに比べたら、(むろん深い哲学は可能だが)イエスの最期は泣き叫んでいたように見えなくもない。

そして、全ての英雄伝はその言行を記録するが目的であるが、イエスの場合は異なる。
イエス伝はむしろ彼の死について誌(しる)すことを、その主たる目的とするらしくある。死について誌すことが詳細であるばかりでなく、死後につきて多くを語っている。イエス伝は彼の死を重点とする。「イエスは死ぬるためにこの世に来た」とさえ言う。(同)
イエス伝は、福音書は、なによりもその死について考察することが肝心なのである。
絶対の無力と絶望の淵に投げ込まれるとはいえ、しかもその絶望の瞬間、イエスが我らに最も近くあられる。……略……。無限に高くして無限に低く、無限に遠くして無限に近い。例えば、ソクラテスは余りに偉大であって、近寄り難く、ついに我らの友ではない。しかし、イエスは千百のソクラテスだけ偉大でありながら、わたしの最も近き友人であり、同情者である。…略…。彼のみは、わたしを棄てない。わたしと共に悩み、わたしと共に悲しむ。どこまでも、多分黄泉の底までもわたしとcondescend(共に下降)して下さるであろう。大なる逆説(パラドクス)である。しかしここに彼の神の子たる所以がある。(16頁)
とても分かる気がする。イエスは自分の故郷であれやこれや試されるようにもてあそばれいじられ、ある意味では失礼さを感じたのに違いない。それはイエスほどの偉大な人でなく一般の人でも同じようなことは多々あって、大変共感する。珍しいことをしていれば、そういうことの目に遭う。物書きなどは典型的だ。

珍しい肩書に対して人は凄いと思って距離をとりつつも内心ではバカにするような、そんな感じがしばしばある。故郷すなわち田舎などそのことをさらに極大化した宝庫のようなもので、嘲笑、失礼、嫉妬などの礫は日常茶飯事なのであるが、しかしこれは都会なら違うかと言えば、別段そういうわけでもない。そういうわけでイエスさんには尊敬と共感を抱く。
かくてまたイエスの十字架の故に、我らを蘇らしめ、我らに永遠の命を与うるのである。これがイエス伝であり、この故にこそこれを福音という。(同) 
ただ神の子イエスを発見し、彼に殺され、彼に生かされて、永遠の命に入らんとの願いに燃えて。かくて聖書研究は……略……実に我らの死活問題である。……略……。永遠のパンの問題である。(17頁)
なんだか、伴侶とか恋人のようである。確かに福音書を読むと、そういう感覚は湧いてくる。いろいろな苦難などの状況において現れてくるイエスのなかにある悲しみ、喜び、怒る、話しかけ、愛するという、その気持ちに共感するということである。

「永遠の命」に入るためとは、仏教にもそういう響きをもった言葉があるようなことを思い出した。彼岸とか悟りとか。イエスによるかよらないかさておくとしても、いずれ現世での命は消えてしまう。だからこそ、消えないよう、何らかの永遠の命を人は得ようとするのかもしれない。永遠の命があると思うことは、一種の平穏、アイレーネーなのだろう。ところでこのアイレーネーは、ウィキであれだが、エイレーネーとあるので、参考に引用しておく。
エイレーネー(ギリシア語: Ἐιρήνη, ラテン文字表記:Eirēnē)は、ギリシア語の女性名。中世ギリシア語・現代ギリシア語読みでは「イリニ」で、「平和」を意味する。
私の主観だが、人の死を、簡単に考えてしまって終わりにすることは誰にも出来ないに違いない。あれやこれやと考え続けて終わりもないものなのだろうと考える。よって、永遠の命と言われても、なにかどこか、寂しい響きが漂っているのは、偶然ではなかろう。

我々も毎晩毎晩、生きながらまるで死かのようにぐっすり眠り、その練習をしていると思わなくもないと思うことがある。そんな風に天国へ行きたいとか思うものだ。すべての亡くなられた人々に。ラテン語、Requiescat in Pace「安らかに眠れ」。R.I.P.

2018年12月29日土曜日

考察「善き音ずれ」とは何か。

塚本虎二さんの本には「善き音ずれ」という文言が出てくる。最初にこれを見た時に私は誤植だろうと思って大笑いした(全て人は大なり小なり誤植して全ての伝達と交流をしているのだが)。良いものが来ているのに音がずれているからである。しかし、同じ表現が次々と出てくるではないか。間違いなくこれは何かに由来してこの表現なのだろうと思うに至る。では何か。

Google検索では『善き音ずれ』(Gooブログ「ゆうゆうの教会便り」https://blog.goo.ne.jp/yuyumitake/e/f62201317a8d9a4c5f7d47dbc934beff)が出てくる。それによれば、『今日の説教のタイトルの「音ずれ」は「訪れ」のことでありますが、日本に最初にきたアメリカの宣教師が子供向けに作った雑誌のタイトルも「喜びの音ずれ」と言うものでした。クリスマスの喜びは美しい音色をもって私たちの許に訪れるものでもあります。中国語では「福音」と表します。」とある。』(そしてネットをざっと見る限り、アドベント advent「待降節」の元の意味はラテン語のadventus「到来」らしい)

なるほど。宣教師の名前や雑誌の存在まで見つけられたら良かったのだがそれは出来なかった。音ずれとは、その宣教師の思想なのである。音がずれるということを、きっと、忠実に考えたのに違いない。調和のとれたメロディーのような、福の神的な、すなわち、そういう時は、イエスが到来しているという意味なのだろう。

「ずれ」が、一回だと考えるから笑ってしまうのである。いや、大真面目にズレって言うところが良いんだ。実際に笑えて幸せな時間だった。それも良いのだが、とにかく、喜ばしい音の階層ということは、なんらかの音階であり、音楽であり、人間側から見れば、音楽に何らかの神性を見出しているとも言えるのかもしれない。

辞書では以下になる。
〈良いたより〉,〈喜ばしいおとずれ〉の意。英語でevangel,gospel(ギリシア語euangelionに由来)。キリスト教では,イエス・キリストによる救済の宣教またはその教えをさす。福音書も原語は同じ。(「福音」 百科事典マイペディア 平凡社)
古典ギリシア文献では,たとえば戦勝の知らせを指して用いられる。ローマ時代には,皇帝を神的存在とみなし(皇帝礼拝),その即位等の知らせを〈よい知らせ〉と呼ぶことが行われた。旧約聖書では,この語に対応するヘブライ語名詞の用例には見るべきものがないが,同じ語根の動詞から出た〈喜びの使者〉の,とくに《イザヤ書》52章7節(前6世紀後半)での用例は,新約聖書の〈福音〉との関連で注目を要する。(「福音」 世界大百科事典第二版 平凡社 ※一部引用)
喜ばしい知らせ。 「 -を待つ」 〔「和英語林集成再版」(1872年)に英語の gospel の訳語として載る。漢訳聖書からの借用語〕(「福音」 大辞林 第三版 三省堂 一部引用)
もとは一般的によい知らせを意味し、戦いの勝利の知らせとか、子供の誕生の知らせなどに用いられた古典ギリシア語「エウアンゲリオン」euaggelion(eu〈よい〉+aggelion〈知らせ〉)の訳語である。『旧約聖書』ではヘブライ語「バーサル」bsarという動詞の訳語として「福音を宣(の)べ伝える」(「イザヤ書」61章1〈口語訳聖書〉)が一度だけ出てくる。この語はまた「よき訪れ」(「イザヤ書」40章9、41章27、52章7)という訳語で出ている。これらは、イスラエルの民がバビロン捕囚からイスラエルの神ヤーウェによって解放され、母国に帰って、ヤーウェを王とするという救いと平和の到来の知らせである。旧約から新約に移る中間時代にあっては、メシヤによる救いの時がユダヤ人によって待望されていた。このことが実現されることがユダヤ人にとってまさに「福音」であった。イエス・キリストがくるすこし前にバプテスマのヨハネはこのような時が近づいていることを宣べ伝え、その時が終末的審判によって始まることを強調し、人々に悔い改めを勧めた(「マタイ伝福音書」3章1~12)。(「福音」 [野口 誠] 日本大百科全書 小学館 一部引用)
以上を読んで考えるに、善き音ずれとは、イエス・キリストによる良い知らせ、ということになるだろう。どうも、「喜ばしい」「福」「知らせ」という言葉を見ていると、もしも「福の神きたよ」という感じでも良いのであれば、実に日本的な雰囲気が出てくるような気さえする。だれかがメリークリスマスと言いながらプレゼント持ってくる風景とそれが、重なった。私の子ども時分はねだっていたような記憶があるのだが。

今そのイメージに適う音楽を探すとしたら、何だろう。クリスマスっぽい音楽なのだろうか。しかし古い古い時代の馬小屋に音楽などないだろう。きっと、もっと、激烈で劇的な心の叫びが聞こえてきそうなほどの感動的な環境ではなかったか。

後のイメージがこれとしても。聞くと寝てしまいそうなほどの平穏だ。春とか冬によさそうなメロディーである。そう言えば私がホームステイした先ではエイメンと言って一家が食事していた。ベリーとかチキンとか、ブラウンライス、懐かしい。

誕生時の現実と中世の理想とには明らかに段差がある。それを喜ばしい音ズレと言っても面白いのかもしれない。どこまでいっても人は地上の国にいるうちは神の国へ行くことができないのに求めているかのような、そのような何かを思わせられる。

愚かな人間。愚かしい人類。それは自分のことだ。生きる即「喜ばしい音ズレ」。昔の自分を振り返れば、恥ずかしくなるような思い出がたくさんあって、それらが宝物なのである。ゆえ、人は人生における善き音ずれを既に頂いている。エイメン。

音楽、これも良い。

2018年12月28日金曜日

序文「伝記か福音か」塚本虎二

昭和21年5月26日に書かれている。この日から、塚本さんの研究会は長年やってきたイエス伝の研究に戻ったようだ。その前は少し横道に外れていたらしい。

この日の記録は、講演が元になっている。イエス伝の研究の意義、目的について話したそうだ。最初からすごい。

「わたし達は十数年かかって、マタイ福音書第一章から始めて二六章の、イエスが十字架につかれるところまで勉強してきた。」「旧約の研究もこれと並行して十年近く続けた」

旧約は長いので分かるにしても、マタイ福音書だけでそんなに長く費やしてきた研究をご披露いただけるとは有り難い。確かに稲山牧師も常日頃から継続的に要旨を記録している。

さて、聖書の見方、福音書についての考え方が重要なようだ。まず、イエス伝と言っても、「イエス伝なるものがあるか」ということが考察される。

4つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのなかで、一番古いのはマルコ福音書だそうだ。そこでまず最初に「『神の子イエス・キリストの福音の始め』(直訳)という書き出しからしてどうも伝記らしくない」と来る。なるほど、文言の解釈から徹底するようだ。

虎二さんは、渋沢栄一と福沢諭吉の簡単な伝記も読んだそうだが、それらと比較的に、何月何日にどこで生まれてという、いわば普通の伝記形式になっていないことを指摘している。

そして、伝記的か否かという二者択一というよりも、「形式的に伝記的な度合い」を考えているようである。そのうえで、マタイとルカはマルコよりも多少ある点で伝記的になっているが、ヨハネは全然そうでないと言う。

では何か。「福音の始め」とあるのだから、福音書なのである。イエス伝と言いながら、福音書であるという事実は、呼び名がじゃっかん間違えやすくしてしまっているのかもしれない。イエス伝というのは通称なのだろうか。

世間には立派な学者の有名なイエス伝があるそうだが、教会は認めていないそうだ。認めているのは福音書ということなのだろう。では福音書とは何か。この福音書というものが書かれた時期には紀元一世紀の末頃でなくなり、その後同じようなものは出ていないようだ。

虎二さんは、それぞれの福音書の最初の一節によって、福音書がどんなものかを概観する。そこにだいたい本の内容が全部含まれているから、だそうである。

・マタイ
最初の一節
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図
「アブラハムの末、ダビデの末ということは、一人の歴史人物であることを示すほかに、イスラエル民族の理想の人、また救世主を指すので、普通の伝記でないことがわかる。(3頁)」

なるほど。なんらかの系統的にということなのだろう。そして、「マタイ福音書を読むと、このイエスが旧約聖書で預言されていた救世主であることを、至る所で証明しようとしていることが判る。(同頁)」とある。

ただイエスという人の伝記ではなく、イエスという人が救世主(キリスト)であることを証明するために書かれた、ということのようだ。

・マルコ
神の子イエス・キリストの福音の始め
「これをマルコ福音書の表題とみるか、あるいは『福音はこうして始まった』といって、洗礼者ヨハネの出現だけにかけるかは問題である。しかしいずれにしても、マルコが『福音』であって伝記でないことはこれで明らかである。」とのこと。

「福音」という語は支那訳から来ているらしいとのこと。ところで何度か出てくると思われるのだが「よき音ずれ」とは、どういうことなのだろう。ちょっと私には分からない。いずれにせよ、「よきおとずれ」「嘉信」の意味だそうだ。嘉信(かしん)とは、ネットを検索してみるに、祝いとか良いこと、などのようである。

次が大事だろう。
「ギリシャ語のユーアンゲリオンの訳で、本来は『よいたよりを持って来た人への褒美』を意味したが、後には、そのたより自身をそういうようになった。イエスの伝道は、われわれが罪を悔改めて神の子キリストを信ずれば、罪を赦されて神の子となり永遠の命を与えられるという喜びの音ずれであったから、これを福音といったのである。」(4頁)よって、マルコは伝記ではなく、福音を書こうとしたのだろうと結論する。

・ルカ
(※古典的な献辞があり、何の目的でこれを書いたかを示している)
「この献辞はルカと同じ著者の手になる使徒行伝と両方にかかるもので、福音の誕生から、それがローマまで伸びていった顛末を書くことを言ったものであるという。」(同)これが、「大分伝記の体裁をしているが、福音の成長を書こうとしたのであったとすれば、それがイエスなる一人の伝記ではないことが明らか」という結論となっている。イエスの行動よりもその「語録」が大部分を占めている。

・ヨハネ
始めに、言葉(ロゴス)はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。
「この言葉が肉体をとったのがイエス・キリストである」とのこと。そして、前の三つの福音書よりも歴史的事実を書いているところがあるかと思えば、他方ではその事実を自由に自分の目的に適うように使って、ほとんどが戯曲的と言い得るほどに一つの筋によって鮮やかに発展させられているようだ。(同頁参照)

歴史的事実とその戯曲化が解釈のカギになっているようだ。ここではトマスという懐疑家がイエスを神の子と告白することをもってクライマックスに達して、イエスの生涯を終わっている。その後に「目的」がはっきり書いてある。
しかし、これらのことを書いたのは、あなた達に、イエスは救世主(キリスト)で、神の子であることを信じさせるため、また、それを信じて、イエスの名によって命を持たせるためである(二〇31)。
こうして、ヨハネ福音書は、イエスが神の子であることを証明して、人々を信仰に入れようとする福音書であることが明らかである、と結論されている。なお、始めの三つの福音書は、共観福音書という。三つとも内容が非常に似ているからだそうだが、いずれも、イエスが神の子であることを証明して、人々に同じ信仰を持たせようとする伝道的なものであることが、4つとも共通していると結論づけられる。

そうして、福音書は以上の目的に沿って研究されることが本当の意味で福音書を読んだことになる、ということを塚本さんは仰っている。ゆえ、ギリシャ語の原典でどんなに研究しても、学者はできるが、福音書を読んだことにはならないと言っている。ただし、伝記として、文学書として、道徳修養の本として、比較宗教学の本として読むことも、かまわないと言われている。

したがって、「ヨハネがいうように、これによってイエス・キリストが神の子であることを信ずるようにならない限り、結局福音書読みの福音書知らずである。」(5頁)だそうだから、信仰を得れば、学問的なことは何も知らなくても福音書を読んだことになるとのことである。この研究会の目的も、研究よりも信仰を得ようとするためだそうだ。

なんだか、こんな自分で読んでいて大丈夫だろうかという気持ちになったが、いろんな読み方をしても良いようなので、福音書読みの福音書知らずはこのまま気楽に続けていくことにする。

・共観福音書の成立
4つの福音書は、マルコを台本にしているそうだ。
今回はそれ以上を覚えられなそうなので割愛する。

マルコの原形はどんなものかというと、現在のマルコ福音書はマルコ自身が書き下した著述ではなく、すでにあった資料をマルコがまとめたものであると大体の学者が意見一致しているそうだ。そしてマルコがイエスの言葉に背景をつけたりしたとのこと。つまり文脈のようなものをつけたようだ。それだから、「原形に戻す」作業を学者が行った。

ゆえ、それを読むと、生の人間らしい、素朴な、一人のガリラヤ人が見えてくるようだ。金襴(きんらん)の袈裟を着せられているイエスよりも、野人イエスを発見するとのこと。マルコよりもマタイのほうが坊主臭いそうだ。それというのも「イエスの烈しい感情の露出や人間らしい弱点と見えるものや神の子の威厳に関すると思われるものがみな隠されたり、ゆがめられてりしているから」。

有名なブッセットのイエス伝というのがあって、それは後人が着せたと思われる衣服を脱がせ、復活も認めず、一人の生生とした命、真実にぶつかる、とのこと。

そうして、生生とした人間イエスの奥にある人物が神の子であることを発見しなければならないそうだ。そしてこれが信仰によって出来る事で、そこまで学問のチカラは及ばないとのこと。確かにそうかもしれない。いくら文面でそう書いてあったりしても、それを信じて居なければ、ただフィクションを書いた文字ということになる。

塚本虎二さんの言う「カトリック精神」が説明されている。
「ただ後代教会の誤った宗教心がーーわたし達はこれをカトリック精神というがーーゆがめたり、隠したりしているものを学問の力で取り去って、直接ガリラヤの大工の子、イエスの姿を見得るようにせねばならない。それは学者伝道者の責任である。」(7頁)

その隠したことを取り去ったのが近代聖書学だから、その貢献は大きいと考えられている。

この研究会はと言えば、親しみやすい人間イエスに接しようとする努力を続けてきたそうだ。その結果、2つのことが解ったという。

1、イエスが私たちと同じ人間であること、ゆえ、イエスの生活も思想も、その環境と結びつかないものは一つもないこと。

イエスは彼の時代のユダヤ人であった(私たちが昭和の日本人であることと同じような意味での)。ウェルハウゼンという人の有名な言葉があるらしい。「彼はクリスチャンではなかった。ユダヤ人であった」

2、すっかり人間になったイエスが、もっと神の子的になる。聖書批評学が起こったころはそれがあまりに破壊的であったから敵視されたこともあったが、今になってみると、相当大きな貢献をしたと塚本さんの研究会の人々は考えている。

信仰が科学的基礎の上におかれたことが重要だった。それ以外にも、以前のように、信仰そのものが、伝統的な、やたら有難がってばかりいた時よりも、かえって生気溌剌たるものとなったそうだ。何となくイメージできてきた。昔は壮麗できらびやかで、有難や、という雰囲気だったのだろう。

この研究会は聖書学によっているのだろう。そうして、この研究会は、かえって聖書の真理に触れることができ、正統的だ、ということを自負されている。正統か、異端か、いろいろと考えさせられてしまうのだが、次へ行こう。

「わたし達は処女懐胎より始まるイエスに関するすべての記事をそのままに信ずる。また、パウロの信仰のみの信仰を言葉通りに信ずる。しかも機械的に信仰箇条として認めるのでなく、その信仰を生きる。」とのこと。

次に不思議なことが書いてある。
「これは実に不思議なことである。普通に神学校で勉強すると、古い正統信仰が蝕(むしば)まれる」そうだが、それとは反対にますます正統的になっていっているのが、この研究会のようである。

「聖書に書いてあることをそのまま言葉通りに信ずることは、教職者をはじめとして、非常に困難であるとされている。自分が信じないのはともかく、公然とそれを嘲(あざけ)る人すらあるのである。」

推測するに、近代科学の影響であろう。しかし科学の影響で内心が変わっても、人を嘲って良い理由はないので、影響の理由よりも、その者の性格や教養が問われているのである。

塚本虎二さん曰く、概略、ただ漫然と信じるのではなく、疑わしいところは遠慮なく疑ってもらいたい。あくまで一人の人間であるイエスが、すべての人と違った、この人だけは神の子であると言わざるを得ないものが出てきたら、イエスが神の子であると判る。

そうして、「どの点がキリスト教徒他の宗教との違いであるか、なぜイエスは神の子でなければならないかということを、いつでもはっきり返事が出来るようにしておく必要がある。」とのこと。そして塚本虎二さんたちは自分たちを「無教会主義」と言い、以上のような態度で聖書を勉強して、そこから出てきたものを、その通り素直に信じているままである、とのことだ。

だいぶイエス好きの感覚が現れていて、だいぶ神の子であり、だいぶ信じているという、熱意が非常に伝わった。ほとんど、「なぜ」とかそういうことはあんまり関係がなく、「自分たちは思うことを思うままに言う。とにかくそうなのだ。あとは自分で疑って、自分でそうとわかり、そう信じてくれたら、良い」というような感じになっているのであろう。

5000字も書いてしまった。次からはもっと短くしたい。



当方の性質について

わたしは3・11後SNSを通じて会津若松で知り合った泉北ニュータウン教会の稲山聖修牧師による説教要旨ブログの1年間の愛読者でもある。しかしキリスト教会に所属しているわけではなく、いろいろな宗教も学んでいて、何を特別に押しているというわけでもなく、ただ学問の神様を信仰しているようなものである。

「付一 クリスマスの喜び」「付二 アイレーネー」塚本虎二

久しぶりに塚本虎二さんを少し読んだ。岩波文庫によく入ってる人である。昭和五十四年九月十五日発行の塚本虎二著作集の第一巻に「付一 クリスマスの喜び」がある。塚本さんはクリスマスのランチキ騒ぎを好ましく思っていなかったようだ。

ある特別の日だけが他の日よりも尊いとか有難いとか考えない。すべての日がクリスマスであり、復活祭である。クリスマスの歴史として、初代教会にはいかなる祭日もなかった。そうして、信仰が生きている間は祭日がなかったとのことである。

信仰が生きている間とはいかなることを言うのか気になるが、今ここでは、俯瞰してもオリジナリティが確固たる状態で色褪せていないことを言うと私は考えておくことにする。祭日について最初にできたのは、イエスの誕生日よりも受難に関するほうだった。

キリスト教は他の宗教と異なり、教祖の言動よりは、その死、十字架が土台であるからだそうだ。わからなかった誕生日が十二月二十五日とされたのは、「ちょうどこの頃が冬至で弱りきった太陽がふたたび元気を回復して新生する時であるため、その不敗の太陽 Sol invictus の祭が民間にあったのを、義の太陽 Sol justitiaeなるキリストの誕生祝としたというのが今日の学者の説」だそうである。つまり、元々人々の間にいた旧い神々などの祝祭日の上にキリスト教が乗っかる形で浸透したとも言えるのだろう。

キリスト誕生の記事はマタイとルカだけにあり、内容も違う。キリストは前7年頃の誕生と見るのが穏当らしい。キリストには兄弟があった(マルコ六3)。塚本さんは、イエスは同胞だけへの自覚をもっておられたようだと書いていて、いっぽう、初代教会については世界伝道の思想を持っていたのだろうと書いている。

恐らく、史実に沿おうとしているからそう塚本さんは書いたのかもしれない。しかしそれはイエスの状況では肉体としての限界があるからであり、霊としては生き返っているのだから違うとも言えるのかもしれないと、ふと思った。

うろ覚えだが、生き返ったのは霊だけでないとの話もどこかであったような気がする。そして天使の讚美について論点がある。そこに出ているギリシャ語のアイレーネーとは心の平安であり、神との和平状態から生まれる心の平安を指している。

戦争状態がないことを言うのか、心の平安を言うのか、そして、栄光や平和があれと願っている讚美なのか、それらはすでに事実であること讚美なのか、などの問題がある。イエスが無事に生まれたから事実として心の平安があるのだろうと私は思う。

無教会主義やカトリック的や福音的などの言葉もあるが、今ここで私には明確でないが、虎二さんの考えでは、信仰がすでに神の子であり救済に繋がるのが福音的なようである。また、善行が神の子たる資格を得ることに繋がるのがカトリック的なようであり、虎二さんはこれを悪魔の奸計(かんけい)つまり悪巧みであるとまで書いている。

悪だくみのほう、しょくゆうじょうを彷彿とさせた。積善説はしょくゆうじょうを作り出すのだろうか。カトリックにとって信仰の特質とか神の子たる条件は何か。そして福音とは何か。また、冷戦構造にも触れられている。心の平安は罪の赦しから来るとあり、普遍的だなと思う。

虎二さんも、右を見ても左を見ても戦争に明け暮れているなかで、「地にはおだやか」という讃美歌を聞くたびに皮肉とか寂しさを感じるそうだが、それこそは聖書の誤読であるという自覚があるようだ。

クリスマスは世界平和ではなく、心の平安なのだそうだ。それというのも、イエスが生まれたから、神への信仰ある人々には、つまり、(ユードキアつまり)「神様のみこころにかなう」人々には、たとえば、中世の誕生の絵では驚いているかのように見える最底辺の暮らしをしていた羊飼いの人々も、恐れることはない、すでに事実として、こころに平安すなわち、古代ギリシャ語でアイレーネーの状態だ、それを喜ぼう、メリークリスマス、とのことであるのだろう。よく学べて私もアイレーネーだ。Good night.

※20181225夜に書いたもの。