2018年12月28日金曜日

序文「伝記か福音か」塚本虎二

昭和21年5月26日に書かれている。この日から、塚本さんの研究会は長年やってきたイエス伝の研究に戻ったようだ。その前は少し横道に外れていたらしい。

この日の記録は、講演が元になっている。イエス伝の研究の意義、目的について話したそうだ。最初からすごい。

「わたし達は十数年かかって、マタイ福音書第一章から始めて二六章の、イエスが十字架につかれるところまで勉強してきた。」「旧約の研究もこれと並行して十年近く続けた」

旧約は長いので分かるにしても、マタイ福音書だけでそんなに長く費やしてきた研究をご披露いただけるとは有り難い。確かに稲山牧師も常日頃から継続的に要旨を記録している。

さて、聖書の見方、福音書についての考え方が重要なようだ。まず、イエス伝と言っても、「イエス伝なるものがあるか」ということが考察される。

4つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのなかで、一番古いのはマルコ福音書だそうだ。そこでまず最初に「『神の子イエス・キリストの福音の始め』(直訳)という書き出しからしてどうも伝記らしくない」と来る。なるほど、文言の解釈から徹底するようだ。

虎二さんは、渋沢栄一と福沢諭吉の簡単な伝記も読んだそうだが、それらと比較的に、何月何日にどこで生まれてという、いわば普通の伝記形式になっていないことを指摘している。

そして、伝記的か否かという二者択一というよりも、「形式的に伝記的な度合い」を考えているようである。そのうえで、マタイとルカはマルコよりも多少ある点で伝記的になっているが、ヨハネは全然そうでないと言う。

では何か。「福音の始め」とあるのだから、福音書なのである。イエス伝と言いながら、福音書であるという事実は、呼び名がじゃっかん間違えやすくしてしまっているのかもしれない。イエス伝というのは通称なのだろうか。

世間には立派な学者の有名なイエス伝があるそうだが、教会は認めていないそうだ。認めているのは福音書ということなのだろう。では福音書とは何か。この福音書というものが書かれた時期には紀元一世紀の末頃でなくなり、その後同じようなものは出ていないようだ。

虎二さんは、それぞれの福音書の最初の一節によって、福音書がどんなものかを概観する。そこにだいたい本の内容が全部含まれているから、だそうである。

・マタイ
最初の一節
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図
「アブラハムの末、ダビデの末ということは、一人の歴史人物であることを示すほかに、イスラエル民族の理想の人、また救世主を指すので、普通の伝記でないことがわかる。(3頁)」

なるほど。なんらかの系統的にということなのだろう。そして、「マタイ福音書を読むと、このイエスが旧約聖書で預言されていた救世主であることを、至る所で証明しようとしていることが判る。(同頁)」とある。

ただイエスという人の伝記ではなく、イエスという人が救世主(キリスト)であることを証明するために書かれた、ということのようだ。

・マルコ
神の子イエス・キリストの福音の始め
「これをマルコ福音書の表題とみるか、あるいは『福音はこうして始まった』といって、洗礼者ヨハネの出現だけにかけるかは問題である。しかしいずれにしても、マルコが『福音』であって伝記でないことはこれで明らかである。」とのこと。

「福音」という語は支那訳から来ているらしいとのこと。ところで何度か出てくると思われるのだが「よき音ずれ」とは、どういうことなのだろう。ちょっと私には分からない。いずれにせよ、「よきおとずれ」「嘉信」の意味だそうだ。嘉信(かしん)とは、ネットを検索してみるに、祝いとか良いこと、などのようである。

次が大事だろう。
「ギリシャ語のユーアンゲリオンの訳で、本来は『よいたよりを持って来た人への褒美』を意味したが、後には、そのたより自身をそういうようになった。イエスの伝道は、われわれが罪を悔改めて神の子キリストを信ずれば、罪を赦されて神の子となり永遠の命を与えられるという喜びの音ずれであったから、これを福音といったのである。」(4頁)よって、マルコは伝記ではなく、福音を書こうとしたのだろうと結論する。

・ルカ
(※古典的な献辞があり、何の目的でこれを書いたかを示している)
「この献辞はルカと同じ著者の手になる使徒行伝と両方にかかるもので、福音の誕生から、それがローマまで伸びていった顛末を書くことを言ったものであるという。」(同)これが、「大分伝記の体裁をしているが、福音の成長を書こうとしたのであったとすれば、それがイエスなる一人の伝記ではないことが明らか」という結論となっている。イエスの行動よりもその「語録」が大部分を占めている。

・ヨハネ
始めに、言葉(ロゴス)はおられた。言葉は神とともにおられた。言葉は神であった。
「この言葉が肉体をとったのがイエス・キリストである」とのこと。そして、前の三つの福音書よりも歴史的事実を書いているところがあるかと思えば、他方ではその事実を自由に自分の目的に適うように使って、ほとんどが戯曲的と言い得るほどに一つの筋によって鮮やかに発展させられているようだ。(同頁参照)

歴史的事実とその戯曲化が解釈のカギになっているようだ。ここではトマスという懐疑家がイエスを神の子と告白することをもってクライマックスに達して、イエスの生涯を終わっている。その後に「目的」がはっきり書いてある。
しかし、これらのことを書いたのは、あなた達に、イエスは救世主(キリスト)で、神の子であることを信じさせるため、また、それを信じて、イエスの名によって命を持たせるためである(二〇31)。
こうして、ヨハネ福音書は、イエスが神の子であることを証明して、人々を信仰に入れようとする福音書であることが明らかである、と結論されている。なお、始めの三つの福音書は、共観福音書という。三つとも内容が非常に似ているからだそうだが、いずれも、イエスが神の子であることを証明して、人々に同じ信仰を持たせようとする伝道的なものであることが、4つとも共通していると結論づけられる。

そうして、福音書は以上の目的に沿って研究されることが本当の意味で福音書を読んだことになる、ということを塚本さんは仰っている。ゆえ、ギリシャ語の原典でどんなに研究しても、学者はできるが、福音書を読んだことにはならないと言っている。ただし、伝記として、文学書として、道徳修養の本として、比較宗教学の本として読むことも、かまわないと言われている。

したがって、「ヨハネがいうように、これによってイエス・キリストが神の子であることを信ずるようにならない限り、結局福音書読みの福音書知らずである。」(5頁)だそうだから、信仰を得れば、学問的なことは何も知らなくても福音書を読んだことになるとのことである。この研究会の目的も、研究よりも信仰を得ようとするためだそうだ。

なんだか、こんな自分で読んでいて大丈夫だろうかという気持ちになったが、いろんな読み方をしても良いようなので、福音書読みの福音書知らずはこのまま気楽に続けていくことにする。

・共観福音書の成立
4つの福音書は、マルコを台本にしているそうだ。
今回はそれ以上を覚えられなそうなので割愛する。

マルコの原形はどんなものかというと、現在のマルコ福音書はマルコ自身が書き下した著述ではなく、すでにあった資料をマルコがまとめたものであると大体の学者が意見一致しているそうだ。そしてマルコがイエスの言葉に背景をつけたりしたとのこと。つまり文脈のようなものをつけたようだ。それだから、「原形に戻す」作業を学者が行った。

ゆえ、それを読むと、生の人間らしい、素朴な、一人のガリラヤ人が見えてくるようだ。金襴(きんらん)の袈裟を着せられているイエスよりも、野人イエスを発見するとのこと。マルコよりもマタイのほうが坊主臭いそうだ。それというのも「イエスの烈しい感情の露出や人間らしい弱点と見えるものや神の子の威厳に関すると思われるものがみな隠されたり、ゆがめられてりしているから」。

有名なブッセットのイエス伝というのがあって、それは後人が着せたと思われる衣服を脱がせ、復活も認めず、一人の生生とした命、真実にぶつかる、とのこと。

そうして、生生とした人間イエスの奥にある人物が神の子であることを発見しなければならないそうだ。そしてこれが信仰によって出来る事で、そこまで学問のチカラは及ばないとのこと。確かにそうかもしれない。いくら文面でそう書いてあったりしても、それを信じて居なければ、ただフィクションを書いた文字ということになる。

塚本虎二さんの言う「カトリック精神」が説明されている。
「ただ後代教会の誤った宗教心がーーわたし達はこれをカトリック精神というがーーゆがめたり、隠したりしているものを学問の力で取り去って、直接ガリラヤの大工の子、イエスの姿を見得るようにせねばならない。それは学者伝道者の責任である。」(7頁)

その隠したことを取り去ったのが近代聖書学だから、その貢献は大きいと考えられている。

この研究会はと言えば、親しみやすい人間イエスに接しようとする努力を続けてきたそうだ。その結果、2つのことが解ったという。

1、イエスが私たちと同じ人間であること、ゆえ、イエスの生活も思想も、その環境と結びつかないものは一つもないこと。

イエスは彼の時代のユダヤ人であった(私たちが昭和の日本人であることと同じような意味での)。ウェルハウゼンという人の有名な言葉があるらしい。「彼はクリスチャンではなかった。ユダヤ人であった」

2、すっかり人間になったイエスが、もっと神の子的になる。聖書批評学が起こったころはそれがあまりに破壊的であったから敵視されたこともあったが、今になってみると、相当大きな貢献をしたと塚本さんの研究会の人々は考えている。

信仰が科学的基礎の上におかれたことが重要だった。それ以外にも、以前のように、信仰そのものが、伝統的な、やたら有難がってばかりいた時よりも、かえって生気溌剌たるものとなったそうだ。何となくイメージできてきた。昔は壮麗できらびやかで、有難や、という雰囲気だったのだろう。

この研究会は聖書学によっているのだろう。そうして、この研究会は、かえって聖書の真理に触れることができ、正統的だ、ということを自負されている。正統か、異端か、いろいろと考えさせられてしまうのだが、次へ行こう。

「わたし達は処女懐胎より始まるイエスに関するすべての記事をそのままに信ずる。また、パウロの信仰のみの信仰を言葉通りに信ずる。しかも機械的に信仰箇条として認めるのでなく、その信仰を生きる。」とのこと。

次に不思議なことが書いてある。
「これは実に不思議なことである。普通に神学校で勉強すると、古い正統信仰が蝕(むしば)まれる」そうだが、それとは反対にますます正統的になっていっているのが、この研究会のようである。

「聖書に書いてあることをそのまま言葉通りに信ずることは、教職者をはじめとして、非常に困難であるとされている。自分が信じないのはともかく、公然とそれを嘲(あざけ)る人すらあるのである。」

推測するに、近代科学の影響であろう。しかし科学の影響で内心が変わっても、人を嘲って良い理由はないので、影響の理由よりも、その者の性格や教養が問われているのである。

塚本虎二さん曰く、概略、ただ漫然と信じるのではなく、疑わしいところは遠慮なく疑ってもらいたい。あくまで一人の人間であるイエスが、すべての人と違った、この人だけは神の子であると言わざるを得ないものが出てきたら、イエスが神の子であると判る。

そうして、「どの点がキリスト教徒他の宗教との違いであるか、なぜイエスは神の子でなければならないかということを、いつでもはっきり返事が出来るようにしておく必要がある。」とのこと。そして塚本虎二さんたちは自分たちを「無教会主義」と言い、以上のような態度で聖書を勉強して、そこから出てきたものを、その通り素直に信じているままである、とのことだ。

だいぶイエス好きの感覚が現れていて、だいぶ神の子であり、だいぶ信じているという、熱意が非常に伝わった。ほとんど、「なぜ」とかそういうことはあんまり関係がなく、「自分たちは思うことを思うままに言う。とにかくそうなのだ。あとは自分で疑って、自分でそうとわかり、そう信じてくれたら、良い」というような感じになっているのであろう。

5000字も書いてしまった。次からはもっと短くしたい。



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