2018年12月29日土曜日

考察「善き音ずれ」とは何か。

塚本虎二さんの本には「善き音ずれ」という文言が出てくる。最初にこれを見た時に私は誤植だろうと思って大笑いした(全て人は大なり小なり誤植して全ての伝達と交流をしているのだが)。良いものが来ているのに音がずれているからである。しかし、同じ表現が次々と出てくるではないか。間違いなくこれは何かに由来してこの表現なのだろうと思うに至る。では何か。

Google検索では『善き音ずれ』(Gooブログ「ゆうゆうの教会便り」https://blog.goo.ne.jp/yuyumitake/e/f62201317a8d9a4c5f7d47dbc934beff)が出てくる。それによれば、『今日の説教のタイトルの「音ずれ」は「訪れ」のことでありますが、日本に最初にきたアメリカの宣教師が子供向けに作った雑誌のタイトルも「喜びの音ずれ」と言うものでした。クリスマスの喜びは美しい音色をもって私たちの許に訪れるものでもあります。中国語では「福音」と表します。」とある。』(そしてネットをざっと見る限り、アドベント advent「待降節」の元の意味はラテン語のadventus「到来」らしい)

なるほど。宣教師の名前や雑誌の存在まで見つけられたら良かったのだがそれは出来なかった。音ずれとは、その宣教師の思想なのである。音がずれるということを、きっと、忠実に考えたのに違いない。調和のとれたメロディーのような、福の神的な、すなわち、そういう時は、イエスが到来しているという意味なのだろう。

「ずれ」が、一回だと考えるから笑ってしまうのである。いや、大真面目にズレって言うところが良いんだ。実際に笑えて幸せな時間だった。それも良いのだが、とにかく、喜ばしい音の階層ということは、なんらかの音階であり、音楽であり、人間側から見れば、音楽に何らかの神性を見出しているとも言えるのかもしれない。

辞書では以下になる。
〈良いたより〉,〈喜ばしいおとずれ〉の意。英語でevangel,gospel(ギリシア語euangelionに由来)。キリスト教では,イエス・キリストによる救済の宣教またはその教えをさす。福音書も原語は同じ。(「福音」 百科事典マイペディア 平凡社)
古典ギリシア文献では,たとえば戦勝の知らせを指して用いられる。ローマ時代には,皇帝を神的存在とみなし(皇帝礼拝),その即位等の知らせを〈よい知らせ〉と呼ぶことが行われた。旧約聖書では,この語に対応するヘブライ語名詞の用例には見るべきものがないが,同じ語根の動詞から出た〈喜びの使者〉の,とくに《イザヤ書》52章7節(前6世紀後半)での用例は,新約聖書の〈福音〉との関連で注目を要する。(「福音」 世界大百科事典第二版 平凡社 ※一部引用)
喜ばしい知らせ。 「 -を待つ」 〔「和英語林集成再版」(1872年)に英語の gospel の訳語として載る。漢訳聖書からの借用語〕(「福音」 大辞林 第三版 三省堂 一部引用)
もとは一般的によい知らせを意味し、戦いの勝利の知らせとか、子供の誕生の知らせなどに用いられた古典ギリシア語「エウアンゲリオン」euaggelion(eu〈よい〉+aggelion〈知らせ〉)の訳語である。『旧約聖書』ではヘブライ語「バーサル」bsarという動詞の訳語として「福音を宣(の)べ伝える」(「イザヤ書」61章1〈口語訳聖書〉)が一度だけ出てくる。この語はまた「よき訪れ」(「イザヤ書」40章9、41章27、52章7)という訳語で出ている。これらは、イスラエルの民がバビロン捕囚からイスラエルの神ヤーウェによって解放され、母国に帰って、ヤーウェを王とするという救いと平和の到来の知らせである。旧約から新約に移る中間時代にあっては、メシヤによる救いの時がユダヤ人によって待望されていた。このことが実現されることがユダヤ人にとってまさに「福音」であった。イエス・キリストがくるすこし前にバプテスマのヨハネはこのような時が近づいていることを宣べ伝え、その時が終末的審判によって始まることを強調し、人々に悔い改めを勧めた(「マタイ伝福音書」3章1~12)。(「福音」 [野口 誠] 日本大百科全書 小学館 一部引用)
以上を読んで考えるに、善き音ずれとは、イエス・キリストによる良い知らせ、ということになるだろう。どうも、「喜ばしい」「福」「知らせ」という言葉を見ていると、もしも「福の神きたよ」という感じでも良いのであれば、実に日本的な雰囲気が出てくるような気さえする。だれかがメリークリスマスと言いながらプレゼント持ってくる風景とそれが、重なった。私の子ども時分はねだっていたような記憶があるのだが。

今そのイメージに適う音楽を探すとしたら、何だろう。クリスマスっぽい音楽なのだろうか。しかし古い古い時代の馬小屋に音楽などないだろう。きっと、もっと、激烈で劇的な心の叫びが聞こえてきそうなほどの感動的な環境ではなかったか。

後のイメージがこれとしても。聞くと寝てしまいそうなほどの平穏だ。春とか冬によさそうなメロディーである。そう言えば私がホームステイした先ではエイメンと言って一家が食事していた。ベリーとかチキンとか、ブラウンライス、懐かしい。

誕生時の現実と中世の理想とには明らかに段差がある。それを喜ばしい音ズレと言っても面白いのかもしれない。どこまでいっても人は地上の国にいるうちは神の国へ行くことができないのに求めているかのような、そのような何かを思わせられる。

愚かな人間。愚かしい人類。それは自分のことだ。生きる即「喜ばしい音ズレ」。昔の自分を振り返れば、恥ずかしくなるような思い出がたくさんあって、それらが宝物なのである。ゆえ、人は人生における善き音ずれを既に頂いている。エイメン。

音楽、これも良い。

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