久しぶりに塚本虎二さんを少し読んだ。岩波文庫によく入ってる人である。昭和五十四年九月十五日発行の塚本虎二著作集の第一巻に「付一 クリスマスの喜び」がある。塚本さんはクリスマスのランチキ騒ぎを好ましく思っていなかったようだ。
ある特別の日だけが他の日よりも尊いとか有難いとか考えない。すべての日がクリスマスであり、復活祭である。クリスマスの歴史として、初代教会にはいかなる祭日もなかった。そうして、信仰が生きている間は祭日がなかったとのことである。
信仰が生きている間とはいかなることを言うのか気になるが、今ここでは、俯瞰してもオリジナリティが確固たる状態で色褪せていないことを言うと私は考えておくことにする。祭日について最初にできたのは、イエスの誕生日よりも受難に関するほうだった。
キリスト教は他の宗教と異なり、教祖の言動よりは、その死、十字架が土台であるからだそうだ。わからなかった誕生日が十二月二十五日とされたのは、「ちょうどこの頃が冬至で弱りきった太陽がふたたび元気を回復して新生する時であるため、その不敗の太陽 Sol invictus の祭が民間にあったのを、義の太陽 Sol justitiaeなるキリストの誕生祝としたというのが今日の学者の説」だそうである。つまり、元々人々の間にいた旧い神々などの祝祭日の上にキリスト教が乗っかる形で浸透したとも言えるのだろう。
キリスト誕生の記事はマタイとルカだけにあり、内容も違う。キリストは前7年頃の誕生と見るのが穏当らしい。キリストには兄弟があった(マルコ六3)。塚本さんは、イエスは同胞だけへの自覚をもっておられたようだと書いていて、いっぽう、初代教会については世界伝道の思想を持っていたのだろうと書いている。
恐らく、史実に沿おうとしているからそう塚本さんは書いたのかもしれない。しかしそれはイエスの状況では肉体としての限界があるからであり、霊としては生き返っているのだから違うとも言えるのかもしれないと、ふと思った。
うろ覚えだが、生き返ったのは霊だけでないとの話もどこかであったような気がする。そして天使の讚美について論点がある。そこに出ているギリシャ語のアイレーネーとは心の平安であり、神との和平状態から生まれる心の平安を指している。
戦争状態がないことを言うのか、心の平安を言うのか、そして、栄光や平和があれと願っている讚美なのか、それらはすでに事実であること讚美なのか、などの問題がある。イエスが無事に生まれたから事実として心の平安があるのだろうと私は思う。
無教会主義やカトリック的や福音的などの言葉もあるが、今ここで私には明確でないが、虎二さんの考えでは、信仰がすでに神の子であり救済に繋がるのが福音的なようである。また、善行が神の子たる資格を得ることに繋がるのがカトリック的なようであり、虎二さんはこれを悪魔の奸計(かんけい)つまり悪巧みであるとまで書いている。
悪だくみのほう、しょくゆうじょうを彷彿とさせた。積善説はしょくゆうじょうを作り出すのだろうか。カトリックにとって信仰の特質とか神の子たる条件は何か。そして福音とは何か。また、冷戦構造にも触れられている。心の平安は罪の赦しから来るとあり、普遍的だなと思う。
虎二さんも、右を見ても左を見ても戦争に明け暮れているなかで、「地にはおだやか」という讃美歌を聞くたびに皮肉とか寂しさを感じるそうだが、それこそは聖書の誤読であるという自覚があるようだ。
クリスマスは世界平和ではなく、心の平安なのだそうだ。それというのも、イエスが生まれたから、神への信仰ある人々には、つまり、(ユードキアつまり)「神様のみこころにかなう」人々には、たとえば、中世の誕生の絵では驚いているかのように見える最底辺の暮らしをしていた羊飼いの人々も、恐れることはない、すでに事実として、こころに平安すなわち、古代ギリシャ語でアイレーネーの状態だ、それを喜ぼう、メリークリスマス、とのことであるのだろう。よく学べて私もアイレーネーだ。Good night.
※20181225夜に書いたもの。
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