2018年12月30日日曜日

第一講「イエス伝研究の目的」塚本虎二

塚本虎二著作集第一巻

旧約聖書と新約聖書があるが、新約聖書が旧約聖書を理解するカギになるから新約から読むのが良いと塚本さんは考えている。それから、新約のなかでも難しいロマ書などを研究したい人も多いが簡単そうに見える福音書のたったの一句でもどこでも、本当に理解することが聖書の全精神に到達することだと彼は言っている。

世の中にはいろいろの英雄伝や道徳書があるけれども、聖書はそれらと違うものだそうだ。ただし聖書を読む前に、フルギアの一奴隷であったストア派哲学者エピクテトスの道徳訓(三十頁ほど)がお薦めされている。世界最大の道徳訓とまで称賛されている。しかしそれら道徳訓が幾千かたまっても福音書には及ばないとも言われる。
福音は……略……永遠朽つることなき生命を我らに与える。修養の道に依らず、信仰の道に依りて死なざる生命(いのち)を我らに与うることを目的とする。(13頁)
目的が明らかになった。
「信仰の道によって永遠の命を得ること」
ゲツセマネにおける彼、殊に十字架上の彼。これをソクラテスの死に比して、一見天地の差がある。(故にイエスに英雄を期待する人は、多くこれに躓(つまづ)く。)しかし、これこそイエスが英雄に非ずして、実に神の子である証拠である。(15頁)
ソクラテスの死については、これからもう一度学び直そうと思っているが今のところ思い返すと、生きる長さよりもどう生きるか、ということで法秩序を尊んで死刑に堂々と臨んだと覚えている。すなわち、善く生きることを目的としていたソクラテスはそれが達成されているから、 死刑を恐れず、むしろそこでも法秩序に従うことの善良さを発揮した、のかもしれない。それに比べたら、(むろん深い哲学は可能だが)イエスの最期は泣き叫んでいたように見えなくもない。

そして、全ての英雄伝はその言行を記録するが目的であるが、イエスの場合は異なる。
イエス伝はむしろ彼の死について誌(しる)すことを、その主たる目的とするらしくある。死について誌すことが詳細であるばかりでなく、死後につきて多くを語っている。イエス伝は彼の死を重点とする。「イエスは死ぬるためにこの世に来た」とさえ言う。(同)
イエス伝は、福音書は、なによりもその死について考察することが肝心なのである。
絶対の無力と絶望の淵に投げ込まれるとはいえ、しかもその絶望の瞬間、イエスが我らに最も近くあられる。……略……。無限に高くして無限に低く、無限に遠くして無限に近い。例えば、ソクラテスは余りに偉大であって、近寄り難く、ついに我らの友ではない。しかし、イエスは千百のソクラテスだけ偉大でありながら、わたしの最も近き友人であり、同情者である。…略…。彼のみは、わたしを棄てない。わたしと共に悩み、わたしと共に悲しむ。どこまでも、多分黄泉の底までもわたしとcondescend(共に下降)して下さるであろう。大なる逆説(パラドクス)である。しかしここに彼の神の子たる所以がある。(16頁)
とても分かる気がする。イエスは自分の故郷であれやこれや試されるようにもてあそばれいじられ、ある意味では失礼さを感じたのに違いない。それはイエスほどの偉大な人でなく一般の人でも同じようなことは多々あって、大変共感する。珍しいことをしていれば、そういうことの目に遭う。物書きなどは典型的だ。

珍しい肩書に対して人は凄いと思って距離をとりつつも内心ではバカにするような、そんな感じがしばしばある。故郷すなわち田舎などそのことをさらに極大化した宝庫のようなもので、嘲笑、失礼、嫉妬などの礫は日常茶飯事なのであるが、しかしこれは都会なら違うかと言えば、別段そういうわけでもない。そういうわけでイエスさんには尊敬と共感を抱く。
かくてまたイエスの十字架の故に、我らを蘇らしめ、我らに永遠の命を与うるのである。これがイエス伝であり、この故にこそこれを福音という。(同) 
ただ神の子イエスを発見し、彼に殺され、彼に生かされて、永遠の命に入らんとの願いに燃えて。かくて聖書研究は……略……実に我らの死活問題である。……略……。永遠のパンの問題である。(17頁)
なんだか、伴侶とか恋人のようである。確かに福音書を読むと、そういう感覚は湧いてくる。いろいろな苦難などの状況において現れてくるイエスのなかにある悲しみ、喜び、怒る、話しかけ、愛するという、その気持ちに共感するということである。

「永遠の命」に入るためとは、仏教にもそういう響きをもった言葉があるようなことを思い出した。彼岸とか悟りとか。イエスによるかよらないかさておくとしても、いずれ現世での命は消えてしまう。だからこそ、消えないよう、何らかの永遠の命を人は得ようとするのかもしれない。永遠の命があると思うことは、一種の平穏、アイレーネーなのだろう。ところでこのアイレーネーは、ウィキであれだが、エイレーネーとあるので、参考に引用しておく。
エイレーネー(ギリシア語: Ἐιρήνη, ラテン文字表記:Eirēnē)は、ギリシア語の女性名。中世ギリシア語・現代ギリシア語読みでは「イリニ」で、「平和」を意味する。
私の主観だが、人の死を、簡単に考えてしまって終わりにすることは誰にも出来ないに違いない。あれやこれやと考え続けて終わりもないものなのだろうと考える。よって、永遠の命と言われても、なにかどこか、寂しい響きが漂っているのは、偶然ではなかろう。

我々も毎晩毎晩、生きながらまるで死かのようにぐっすり眠り、その練習をしていると思わなくもないと思うことがある。そんな風に天国へ行きたいとか思うものだ。すべての亡くなられた人々に。ラテン語、Requiescat in Pace「安らかに眠れ」。R.I.P.

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